JET40周年 代表挨拶

 皆様こんばんは
 只今ご紹介いただきましたJET株式会社及び株式会社トランセンド代表の遠藤です。ご来賓の皆様におかれましては年末の御多忙の中、私共の催しに御臨席賜りました事、心より感謝申し上げます。スタッフの皆様におかれましては、業務外の時間にお付き合い頂きありがとうございます。業務対応でここに来れない方も大勢おります。合わせて感謝申し上げます。
 本日は司会の方からも紹介いただきましたが、JET株式会社創業40周年、JET・トランセンド合同忘年会という事で開催させていただいております。
 ここで少しお時間を頂き、JET40周年の歩みをお話しさせていただきたいと思います。 弊社のルーツですが、遡る事50数年、今は無き私の父遠藤芳雄が新潟県の五ケ浜村という漁村から同郷の先輩を訪ねて相模原の地にたどり着き、旋盤のオペレーターとして仕事に就いたのが始まりだと聞いております。そこから10数年の紆余曲折を経て、昭和58年9月、赤坂工業団地協同組合の一員として今の加工工場の場所で有限会社遠藤製作所を設立する事になりました。裸一貫で田舎町から出てきた父にとっては、まさに腕と度胸と自分の会社を作るという信念を貫いての設立だったのだと思います。創業当時は、父と母、そして数名の年配スタッフの皆さんと共に旋盤加工、フライス加工を行っていました。主に建設重機の部品加工で、創業して5年後には年商は数千万円程の売り上げだったと認識しております。高度経済成長期が終焉を迎え安定成長期という中ですが、まだまだ経済成長率が5%程度という高水準でしたので、やればやるほど儲かる時代であったのだと思います。

 しかしながら、私の父は元々漁師で、腕と勘に任せて魚を取る事は得意でも、仕事とお客様の心をつかむのはそれほど得意ではなかったようです。そんな遠藤製作所でしたが、父、母、に加えスタッフの地道な努力と協力会社様、のお力添えもあり、売り上げも徐々に増え、兄と私を大学に通わせられるような収入が確保できるようになっていきました。 順風満帆とはいえないにしてもそれなりに売上を立てられていた遠藤製作所でしたが、父が60歳の歳に脳梗塞で倒れてしまい、入院生活を強いられることになりました。発症当時は半年か1年かで復帰できるのではないかと思っていましたが、結果として父がこれ以降、業務に復帰をする事はありませんでした。
 兄夫婦を含めた4人の家族会議の結果、私が会社を引き継ぐ事になりました。金融機関系のシンクタンクに属し、金融関係者として勤めていた私が当時感じた事は、売り上げに対して借入割合が多い会社だなあ?と思うくらいの財務状況だったことを憶えています。今更親父の愚痴を言っても始まらないので、当時の事はこのくらいにしますが、それからの私は、儲かる為には何をすればいいのか?どうずれば成功できるのかを常に考えていました。時勢、業界、技術、情報とアンテナを張り、やれる事はなんでもやってみようと。しかしなかなか上手くいかないのが現実です。父と一緒に従事してくださったスタッフさん達は5年とかからず会社を去っていきました。私が指し示す新しい取組に共感を持てなかったのだと思います。
 それから紆余曲折の27年という年月の中、私が沢山の時間を要して気づいた事は、より多くの情報を正しく判断して行動する。お金を得る事より、人の信頼を得る事が何より大切だという事です。私が出来る事は何か、信頼できる仲間を数多く増やし、信用できるお客様と実りある仕事をする事。そして日本の技術力の象徴となるような会社を目指そうという思いで社名を『JET株式会社』ジャパン・エボリューション・オブ・テクノロジーに変更しました。
 技術部の取組で加工技術の奥深さを知り、ノウハウを手にいれました。総務部の活躍で業務の幅が格段に広がりました。プラス、能力の高い女性チームが出来ました。装置を創り出す幅広い知識は、設計部とトランセンドの皆さんの日々の努力の賜物です。知識豊富な仲間に出会えて、知恵を借りる事が出来ています。良きお客様のとの出会いで、信頼を学びました。数え上げればキリがありません。
 言わば、ここにお越しいただいた全ての方々の支えで今のJETが存在すると思っております。我々はまだまだ成長途中です。立ち止まっているわけにはいきません。40年は一つの区切りとして次のステップにつなげていこうと思います。我々のチームワーク、技術力で世間をあっと言わせる取り組みを続けていこうと思います。
 引き続き力を貸してください、共に成長していきましょう。
 最後に御参加いただきました皆々様のご健勝ご繁栄を祈念いたしまして私の挨拶と代えさせて頂きます。 ご清聴ありがとうございました。

代表取締役 遠藤法男